富田城略年表

〜 文治元年(1185)から 慶長十六年(1611) 〜


11851月1日、佐々木義清、出雲・隠岐の守護となり、富田に入る
1335塩冶高貞、足利尊氏に降って、出雲全国を尊氏より受く
1341四月、出雲の守護・塩冶高貞、山名時氏のために追われ、出雲に帰り宍道にて自殺す
13438月20日、足利尊氏が佐々木高氏(佐渡判官道誉)を出雲の守護職に補す。
1353山名時氏、佐々木高氏を破って、雲・隠二国を奪う
1364山名時氏、出雲の守護となる。富田秀貞を目代として富田に居らしむ。
13923月2日、京極高詮、出雲の守護となる。
1395尼子持久、京極高詮の守護代として富田城に入る。
1404山中鹿之介の祖・五郎幸久誕生。(尼子清定弟)
144112月20日、幕府、京極持清を出雲・隠岐・飛騨三国の守護職に補す
145811月20日、尼子伊豫守経久誕生。
14861月1日、尼子経久、守護代・塩冶掃部介を滅ぼし富田城を乗っ取る。
14903月上旬、大徳寺の春浦宗燕、経久の画像に賛す。(画像は洞光寺にあり)
150810月25日、京極政久(政高)吉童子丸に守護職を譲る
15189月6日、尼子政久(経久嫡男)阿用にて討ち死にす。26歳。晴久当時5歳
1521この頃、尼子経久、山陰・山陽十一ヶ国(因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐・
播磨・美作・備前・備中・備後・安芸)に号令す。
1526毛利元就、尼子と決別し、大内義興と旧交を復す。
1534尼子興久(経久四男)父と不和になり備後甲山城主、山内大和守直道方にて
自殺す。38歳
153711月、尼子経久家督を孫(晴久)にゆずる。経久80歳。晴久23歳。
15408月10日、尼子晴久、毛利元就征伐のため富田城を出発す。
15411月13日、尼子下野守義勝(久幸)毛利と戦って戦死。14日晴久富田に
敗走す。
15421月12日、大内義隆、出雲攻略のために周防山口、築山の館を発足す。
15435月7日、月山来攻の大内義隆敗れ、嫡子周防守(晴持)揖屋にて溺死す。
15524月2日、尼子晴久、将軍義晴より、八ヶ国の守護職に補さる。晴久39歳。
155411月1日、尼子晴久、新宮党を族滅す。(国久、誠久殺され、敬久討死、
常久、吉久自殺、孫四郎(勝久)2歳脱出。)
156212月24日、尼子晴久頓死、49歳、嫡男義久継ぐ。
15654月17日、毛利元就、富田城を三面より攻撃す。お子守口・元就、塩谷口・
元春、菅谷口・隆景。毛利軍城内に入ることを得ず。
156611月28日、尼子義久、毛利の軍門に降り富田城開城す。
15696月23日、山中鹿之介、勝久を奉じて出雲に進入す。勝久17歳、鹿之介
25歳。
15702月14日、尼子、毛利両軍布部山にて戦い、尼子軍大敗す。
15787月3日、上月城落城し、尼子勝久自殺す、26歳。7月17日、山中鹿之介
備中国甲部川にて殺さる。34歳
15855月3日、毛利元秋、富田城内にて病死す。
15916月18日、吉川広家、出雲三郡、伯耆半国12万石を下賜され富田城に入る。
広家、米子湊山城を築く。
16009月19日、堀尾吉晴、雲・隠24万石の太守となり、11月富田城に入城。
吉川広家は周防岩国に転封せらる。
16116月17日、堀尾吉晴、松江に卒す、65歳。富田城は、文治元年より、慶長
16年まで427年にして廃墟となる。


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